和田アキ子さんの「おとなの𠮟り方」を読みました。
最近、仕事において「あまりにも非常識な方に対しては毅然とした態度を示さなければならない」と強く実感した出来事がありました。ただ、僕はもともと気が弱い人間で、人に注意をするとか、言いにくいことを言うとかが苦手です。とはいえ、そうもいってはいられないのが仕事というもの。「なんとか自分なりにできるようにならないとな……」という思いがありました。そんな時、古本屋で見つけたのが和田アキ子さんの「おとなの𠮟り方」という本でした(リンクはこちらから)。芸能界のご意見番であるアッコさん。個人的にはその生き方をものすごく尊敬しているというわけでもないのですが、「こういう方の言葉にこそ、今の自分にとって大きなヒントがあるのではないか」という思いで読んでみました。
読んでみた感想ですが……。まるで自分が叱られているような気分になりました(笑) 例えば、格好がだらしがないのはダメ、というのは結構耳が痛い話で、僕はあまり執着しないんですよね……。もちろん、自分は芸能人ではないし、芸能人ほどきちんとした服装を求められないかなと思うのですが、靴とかちょっとボロボロのものを履いてしまっているなあ、と思いました。過剰に気にしすぎたりお金をかけすぎる必要はないと思うのですが、自己管理の一環としてそのあたりも気にしないといけないかな、ということは思いました。
個人的なことについての感想から入りましたが、全体としての感想としては……。筆者の個性を強く感じる本だったと思います。
率直に言ってしまうと、内容としては、いわゆる老害的な部分もあるとは思いました。例えば、「飯も作れない女とは結婚するな」とか。ほかにも、ご自身の個人的な感情に理由付けをして正当化しようとしているところはあるかなと思います。「これは自分の価値観とは大きく違うな」というところも少なからずありました。
ただ、「自分の信念に基づいて、これだけ厳しく相手に言えるのはすごいな」と思いました。
多分、和田アキ子さんの心の中には鬼がいるのだろうと思います。とても厳しい鬼がいるから、自分のルール、美学はそう簡単には曲げられない。だからこそ、自分もしっかりやるし、人にも厳しく言えるのだと思いました。自分に甘いと叱れないであろうことを考えると、とても真面目な人なんだろうと思います。
大変刺激的な内容でしたが、そのおかげで、マナーや気遣いについて今一度自分の考えを振り返ることができたと思います。
例えば、本作品の中には、「相手を不愉快に感じさせたら迷惑行為」という表現が出てきます。僕としては、この考えはさすがに極端という感じで賛同できないのですが、「では自分はどう考えるのか」とあれこれ考えるに至りました。
僕は学生時代に体育会系の部活をしてきました。また、特に大学の部活では気遣いに基づいた行動をとるように強く求められました。その時は「ここでやっていくためには仕方がない」と思いながら言われるがままに気遣いを身につけていったのですが、今振り返ると、とても非効率的なものも「それが気遣いだ」という理由で正当化されていたと感じます。例えば、「下級生は自分から遠くに転がっているボールでもダッシュでとりに行け」と言われていたので、コートの反対側にあるボールも取りに走っていました。考えてみるとばかばかしく思えるでしょうが、「そうした真剣な行動をとることで、みんなの士気が上がるんだ」という理屈で説明されていましたし、自分も後輩にそう話していました。今振り返ってみると、「ある種の洗脳状態だったのかもしれない」なんて感じるのですが……(笑) 本書「おとなの叱り方」を読んで、あまりにも非効率的な行動、思想に対する不満を思い出すことができました。
僕個人としては、あまりにも非効率的な「気遣い」に対しては批判的な精神を持つことも大切だと思っています。
例えば、神社の手水。その昔、神社に入る前には、みな川で身を清めていたそうです。それは、イザナギが黄泉の国から帰ってきたときに身を清めたことに由来するのですが、毎回毎回川に入るのも大変だったのでしょう、それが簡略化されたのが今の手水だそうです。今の世の中で「手水のように簡略化するのは神様に失礼だ」といって川に入るよう求めてくる人がいたらどうでしょうか。「それはやりすぎでは」と思う人がほとんどではないでしょうか?また、実際に自分が経験したケースでいうと、「亡くなった方への思いがあれば、月命日もお墓参りをして当然だ」といって周りに厳しく求める人がいました。それもまた、極端だなあという感想を持っています。
もちろん、「気遣いとして手の込んだ行動をしているならば、その人の方がより気遣いが出来ている」という見方はできるかもしれません。ただ、僕らが使える時間はどうしても限られているし、気遣いによって行動の自由の一部が妨げられるのも事実です。ですから、「他者を不快にさせたらダメだ」とだけ述べて批判するのは思考停止だと感じます。
しかしその一方で、他者についての気遣いは全くなくしてよいかというと、それもまた極端だろうと思っています。
日本人は「他者に迷惑をかけるな」という思いが強すぎる、という批判がなされることがあります。その流れで、 「インドでは『あなたは人に迷惑をかけて生きているのだから、他人のことも許してあげなさい』と教えている。それを見習うべきだ」と述べる方々もいます。しかしそうした教えが浸透しているインドでは、他者への迷惑を顧みない行動が社会で散見されているようです。僕個人としては、「気遣いを持つ」という文化は日本の良さだと思っていますし、全くなくなってしまえば、むしろ暮らしにくい世の中になるんじゃないかなと思います。
要は、マナーや気遣いをどう考えるかについては、程度問題で議論すべきだと思うのです。それは、本書「おとなの𠮟り方」では抜けおちていた視点だと思います。
マナーや気遣いの根底にあるのは、「人付き合いを大事にして、他者に一定の気遣いを持ち、一定のエネルギーを割くべき」という姿勢です。僕は、これ自体は良い側面が沢山あるものであり、大切にした方が良いものだと思っています。例えば、誰かに会ったら無視せずにちゃんと挨拶をした方がいいと思うし、電車では身体的にきつそうな方に席を譲ってあげた方が良いと思っています。
あとは、そうした気遣いによって得られるメリットと、そこに割かれるリソースを考慮して、「今、この場でどう振舞うと良いのだろうか」と考え続ける姿勢を持ちたいと思います。
それを実践するためには、「今の世の中の気遣いの相場」や「自分が今いる現場の気遣いの相場」を更新し続けることが大事だと思います。また、「自分の目の前にいる相手がどんな価値観を持っているのか?」に関心を持つことも求められるでしょう。その上で、そうした「気遣い」を絶対視することはせず、「これはさすがに非効率的すぎるのでは?」と思うことについては批判的な精神を大切にして、必要に応じて変えようとする行動をとっていく。そうしたバランス感覚をもっておくことが、社会的な営みを続ける僕ら人間にとって求められることではないかな、と思いました。
「おとなの𠮟り方」というタイトルでしたが、「𠮟り方」というところからは離れてあれこれ書いてしまいました(笑) 僕としては「気遣い」について深く考えさせられる内容で、とても良い体験ができたと感じました。
読んでみた感想ですが……。まるで自分が叱られているような気分になりました(笑) 例えば、格好がだらしがないのはダメ、というのは結構耳が痛い話で、僕はあまり執着しないんですよね……。もちろん、自分は芸能人ではないし、芸能人ほどきちんとした服装を求められないかなと思うのですが、靴とかちょっとボロボロのものを履いてしまっているなあ、と思いました。過剰に気にしすぎたりお金をかけすぎる必要はないと思うのですが、自己管理の一環としてそのあたりも気にしないといけないかな、ということは思いました。
個人的なことについての感想から入りましたが、全体としての感想としては……。筆者の個性を強く感じる本だったと思います。
率直に言ってしまうと、内容としては、いわゆる老害的な部分もあるとは思いました。例えば、「飯も作れない女とは結婚するな」とか。ほかにも、ご自身の個人的な感情に理由付けをして正当化しようとしているところはあるかなと思います。「これは自分の価値観とは大きく違うな」というところも少なからずありました。
ただ、「自分の信念に基づいて、これだけ厳しく相手に言えるのはすごいな」と思いました。
多分、和田アキ子さんの心の中には鬼がいるのだろうと思います。とても厳しい鬼がいるから、自分のルール、美学はそう簡単には曲げられない。だからこそ、自分もしっかりやるし、人にも厳しく言えるのだと思いました。自分に甘いと叱れないであろうことを考えると、とても真面目な人なんだろうと思います。
大変刺激的な内容でしたが、そのおかげで、マナーや気遣いについて今一度自分の考えを振り返ることができたと思います。
例えば、本作品の中には、「相手を不愉快に感じさせたら迷惑行為」という表現が出てきます。僕としては、この考えはさすがに極端という感じで賛同できないのですが、「では自分はどう考えるのか」とあれこれ考えるに至りました。
僕は学生時代に体育会系の部活をしてきました。また、特に大学の部活では気遣いに基づいた行動をとるように強く求められました。その時は「ここでやっていくためには仕方がない」と思いながら言われるがままに気遣いを身につけていったのですが、今振り返ると、とても非効率的なものも「それが気遣いだ」という理由で正当化されていたと感じます。例えば、「下級生は自分から遠くに転がっているボールでもダッシュでとりに行け」と言われていたので、コートの反対側にあるボールも取りに走っていました。考えてみるとばかばかしく思えるでしょうが、「そうした真剣な行動をとることで、みんなの士気が上がるんだ」という理屈で説明されていましたし、自分も後輩にそう話していました。今振り返ってみると、「ある種の洗脳状態だったのかもしれない」なんて感じるのですが……(笑) 本書「おとなの叱り方」を読んで、あまりにも非効率的な行動、思想に対する不満を思い出すことができました。
僕個人としては、あまりにも非効率的な「気遣い」に対しては批判的な精神を持つことも大切だと思っています。
例えば、神社の手水。その昔、神社に入る前には、みな川で身を清めていたそうです。それは、イザナギが黄泉の国から帰ってきたときに身を清めたことに由来するのですが、毎回毎回川に入るのも大変だったのでしょう、それが簡略化されたのが今の手水だそうです。今の世の中で「手水のように簡略化するのは神様に失礼だ」といって川に入るよう求めてくる人がいたらどうでしょうか。「それはやりすぎでは」と思う人がほとんどではないでしょうか?また、実際に自分が経験したケースでいうと、「亡くなった方への思いがあれば、月命日もお墓参りをして当然だ」といって周りに厳しく求める人がいました。それもまた、極端だなあという感想を持っています。
もちろん、「気遣いとして手の込んだ行動をしているならば、その人の方がより気遣いが出来ている」という見方はできるかもしれません。ただ、僕らが使える時間はどうしても限られているし、気遣いによって行動の自由の一部が妨げられるのも事実です。ですから、「他者を不快にさせたらダメだ」とだけ述べて批判するのは思考停止だと感じます。
しかしその一方で、他者についての気遣いは全くなくしてよいかというと、それもまた極端だろうと思っています。
日本人は「他者に迷惑をかけるな」という思いが強すぎる、という批判がなされることがあります。その流れで、 「インドでは『あなたは人に迷惑をかけて生きているのだから、他人のことも許してあげなさい』と教えている。それを見習うべきだ」と述べる方々もいます。しかしそうした教えが浸透しているインドでは、他者への迷惑を顧みない行動が社会で散見されているようです。僕個人としては、「気遣いを持つ」という文化は日本の良さだと思っていますし、全くなくなってしまえば、むしろ暮らしにくい世の中になるんじゃないかなと思います。
要は、マナーや気遣いをどう考えるかについては、程度問題で議論すべきだと思うのです。それは、本書「おとなの𠮟り方」では抜けおちていた視点だと思います。
マナーや気遣いの根底にあるのは、「人付き合いを大事にして、他者に一定の気遣いを持ち、一定のエネルギーを割くべき」という姿勢です。僕は、これ自体は良い側面が沢山あるものであり、大切にした方が良いものだと思っています。例えば、誰かに会ったら無視せずにちゃんと挨拶をした方がいいと思うし、電車では身体的にきつそうな方に席を譲ってあげた方が良いと思っています。
あとは、そうした気遣いによって得られるメリットと、そこに割かれるリソースを考慮して、「今、この場でどう振舞うと良いのだろうか」と考え続ける姿勢を持ちたいと思います。
それを実践するためには、「今の世の中の気遣いの相場」や「自分が今いる現場の気遣いの相場」を更新し続けることが大事だと思います。また、「自分の目の前にいる相手がどんな価値観を持っているのか?」に関心を持つことも求められるでしょう。その上で、そうした「気遣い」を絶対視することはせず、「これはさすがに非効率的すぎるのでは?」と思うことについては批判的な精神を大切にして、必要に応じて変えようとする行動をとっていく。そうしたバランス感覚をもっておくことが、社会的な営みを続ける僕ら人間にとって求められることではないかな、と思いました。
「おとなの𠮟り方」というタイトルでしたが、「𠮟り方」というところからは離れてあれこれ書いてしまいました(笑) 僕としては「気遣い」について深く考えさせられる内容で、とても良い体験ができたと感じました。
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