(ネタバレ注意!)「魔の山」を再読いたしました。
ここ最近、1か月ほどかけて「魔の山」を再読しました。過去のブログを見てみますと、1回目に呼んだのはもう12年前のようです。当時の僕は、まだ学生でした。「もうそんなに経つのか」という感じですね……。
かなりの大作であり、自分も思うことがたくさんあります。そのため、感想はかなり長文になってしまいました。消化しきれていないところも多々あるのですが、今の自分が面白いと思ったこと、書いておきたいと思ったことを正直に記していきます。
<前置き ~なぜこの本を再読することにしたのか~>
12年前の自分は、それなりに本を読んでいる学生だったと記憶しています。当時は、「自分も物語を書いていこう」と思いたった時期でした。「アウトプットをするためには、たくさんインプットしないと」と思い、とにかく色々な小説に手を出していました。その時にふと「時間に余裕がある今こそ、世界の名作と呼ばれる小説を読みまくろう」と思い立った覚えがあります。そうして始めたのが、ノーベル文学賞をとった作家の小説を1冊ずつ読んでいくというものだったんですね。今思えば「絵に描いたようなミーハーだなあ……」と笑ってしまいそうになりますが、当時はそれなりの熱意をもってこの課題に取り組みました。川端康成氏の「雪国」、大江健三郎氏の「個人的な体験」にはじまり、トルストイ氏の「戦争と平和」、ゴールディング氏の「蝿の王」、ジッド氏の「狭き門」等々……。それらの内容をどこまで理解できたかは正直怪しいし、今の自分にどれだけ生きているのかも怪しいのですが(笑) いずれも、ブログで感想を書き記していました。
それらの作品の中で最も難解だと感じたのが、トーマス・マン氏の「魔の山」でした。同氏の有名作と言えば「ヴェニスに死す」等もあるのですが、当時の僕は「魔の山」を選ぶことに迷いはありませんでした。その理由は今でもよく覚えているのですが、文庫本の裏表紙に書かれた説明文に惹かれたからなんですよね。そこには、以下のように書いていました。
「思想・哲学・宗教・政治などを論じ、人間存在の根源を追求した「魔の山」は「ファウスト」「ルァラトストラ」と並ぶ二十世紀文学屈指の名作である」
いかにも、ミーハーな人間が好きそうな文章じゃないですか(笑)ちなみに、この説明文を読んだ後、当時の自分は「ファウスト」も読了しています。本当に笑っちゃうところではありますが、一方で、「よくやったなあ」という気持ちも少しあります。ヒマだったのもあるのでしょうが、当時の自分はなかなかエネルギッシュだったと思います。
さて、そうして「魔の山」に手を出したのですが、読了後もずっと「これはまた再読しよう」と思っていました。理由はいくつかあるのですが……。1つは、あまりにも難解で、当時の自分ではよく意味が分からなかったからです(笑) 全然理解できないんですが、しかし一方で、なんだかすごく惹かれたんですよね。「これは自分にとって大事なことが書いている気がする」という感覚がありました。特に、第6章の「雪」には強烈に引き付けられました。主人公であるハンス・カストルプは、この章で自分なりの思想に至ります。この部分がうまく理解できず、非常に悔しい思いがありました。「もう少し年齢を重ねた自分でいつか挑んでみたい」。そんな気持ちは、ずっとありました。
再読しようと思ったもう1つの理由。それは非常に単純なもので、主人公であるハンス・カストルプが好きだったからです(笑) 人生に対して誠実であろうとする彼が好きで、僕はまた彼に会いたいと思ったのでした。実際、この本を手に取ってまず自分の中に生まれたのは、ハンスに再会できた喜びでした。面白いことに、彼は以前の僕よりも年上なのですが、今は僕の方が年上です。時を経てからハンスの冒険に改めて触れる体験は、予想以上に楽しかったですね。
<再読して思ったこと ~全体的なこと~>
前回は2か月半かけて読んだのですが、今回は1か月ほどでした。内容については結構忘れていましたね。ですが一方ですごく細かいところをはっきり覚えていたりして、それがなかなか面白かったです。例えば、ヨーアヒムが臨終をむかえる間際のシーン。その場に母親が付き添っていたことすら忘れていたのに、一方で、ヨーアヒムが手で何かをかき集めるような動作を繰り返していた、なんて描写ははっきり覚えていたり(下巻P394)。再読のおかげで、「こういう細部を案外覚えていたりするんだな」という発見が出来ました。
また、ストーリーについて勘違いしていた部分があったことに気が付くところもありました。大きなものとしては、上巻のラスト。ハンスとショーシャ夫人は、この日一夜を共にしていたんですね……。今読めば明らかにそうだと分かるのに、当時の僕は「私ノ鉛筆、忘レナイデ返シニキテネ」の意味が分かっていませんでした。また、「ハンス・カストルプを引き留めたのはショーシャ夫人だった」との意見について当時の僕はよく理解できませんでした(上巻P478、P334にもそれ関連の記載があります)。が、今は少し理解できます。彼は確かにベーレンス顧問官に「ここにいるように」と言われたのですが、よく読むと「ハンスは結核だった」とは書かれていないし、実際、大分怪しいのです。彼はその気になれば逃げだすこともできたはずなのに、そうしなかった。そこには確かに、ショーシャ夫人と一緒にいたいという思いが影響していたのだと思いますね。滞在が延びることになった後、ハンスはやけに物分かりよく患者として振る舞っています。このシーンは、今となっては微笑ましいですね(笑)
さて、先ほども言った通り、今回は前回よりも早く読み終えました。それはもちろん再読だからということもあるでしょうが、今回はいくつか工夫をしたことも功を奏したのかなと思っています。この部分についても、少し書いておきますね(また後ほど読むことになりそうですし……)。
今回の僕は、分からない箇所があっても長く立ち止まらないように心がけていました。とはいえ、分からないものが残っているのは気持ちが悪いので、そのことはメモに残し、あとで読み返せばいいことにして読み進めました。そうして読んでいると、後々になってふと理解出来たりするんですよね。
もうひとつは、「濃淡をつけて読む」ことを意識していました。これは、必ずしも正しいことかはわかりませんが……。随分と細かい情景描写等は、さっさと読み進めるように意識していました。「魔の山」って、とにかくあらゆる描写が丁寧なんですよね。このことはかの三島由紀夫氏も感じていたようで、彼に言わせると「そこがドイツ人らしい」そうです(笑) 個人的に、心理描写の丁寧さは大歓迎なんですけどね。例えば、1つの出来事に対して湧き上がる、相反する思いの描写を読むと、「ああ、こういうアンビバレンツは『あるある』だよね!」とか思いますし。しかし情景描写については、あまりにも長いとちょっとしんどくなるんですよね。「よく見てるなあ」とか「自分は絶対にこれを書けないなあ」という思いはあるのですが……。面白いかというと、個人的にはそうでもなかったです。
そういうわけで、大事そうなところはじっくり読んで、そうでもなさそうなところ(?)はさっさと読み飛ばす、という方法をとりました。ご批判もありそうですが、個人的にはこれも悪くなかったのかなと思います。
さて、ここからは内容についても言及していきます。まずは、「粋だなあと思ったシーン」、「笑えたシーン」について述べ、そこから、自分が1番興味のあったこと、つまり、「ハンス・カストルプの成長について思うこと」を書きます。また、最後に「よく分からなかったこと」についても言及しておこうと思います。また10年くらいしたら再読するかもしれませんからね(笑)
<粋だなあと思ったシーン>
前回の自分がどこまで意識していたのか分かりませんが、本作品は演出が優れていて、非常に印象的なシーンが多々ありました。こんなことを素人の僕が言うと怒られそうなんですが、表現が本当にうまいんですよね……。文章自体もそうですけど、シーンの切り取り方や見せ方といった演出面も素晴らしいと思いました。いくつかのシーンは、泣きそうになってしまいました。以下、特に印象的な描写、シーンを挙げてみます。
・ショーシャ夫人の肉体に関する官能的な描写(上巻P478)
特に上巻では、ショーシャ夫人の肉体の描写が妙に官能的だと感じました。それは腕だったり、軽椎骨だったりとかなり部分的なんですが、なんか妙にエロさを感じました(笑) 振る舞いはどうも上品さに欠ける彼女ですが、「良い女」という感じが伝わってきました。
・カーレンと一緒にお墓に行くシーン(上巻P660)
上巻で1番泣けるシーンと言えば、ここだと思います。まもなく死ぬであろう薄幸の少女カーレンと共に、ハンスとヨーアヒムは散歩をしていました。が、意図せず3人は墓地にたどり着きます。そこは、カーレンが死ねばここに入れられることになるであろう場所でした。石碑がぎっしりとあるその墓地ですが、1か所だけ石碑がない場所がありました。少女が死ねば埋葬されるであろうその場所で、3人はたたずみます。ハンスがちらりと少女を見ると、彼女は少し照れたような笑いを浮かべた、という描写でこのシーンは終わります。しばらくはこのシーンのことが頭から離れませんでしたね……。
・ショーシャ夫人に「君は鉛筆を持っていないかしら」と尋ねるシーン(P682)
このシーンを読んだ時は興奮しました。いや、素晴らしい伏線回収です。以前はあまり感動した覚えがないのですが、昔の自分はここを読んでどう思ったんだろうか……(笑)
ハンスは少年時代にヒッペという男の子に惹かれていました。ハンスとヒッペが話したのはたったの1度。ハンスが「すまないけど、君、鉛筆貸してくれないか」と話しかけたのでした(上巻P258)。そんな過去があっての今、ハンスは、彼とショーシャ夫人を重ねてみていることが繰り返し述べられています。その後、出てきたのがこのシーンです。
ハンスは謝肉祭でお遊びに興じ、誰かから鉛筆を借りようとします。そうして彼の目に入ったのがショーシャ夫人であり、彼は「君は鉛筆を持っていないかしら」と初めて話しかけるのでした。ヒッペから鉛筆を借りたという伏線をこのように回収するなんて、本当に粋な演出だと思います……!
・ヨーアヒムが下界へと向かうシーン(下巻P165)
このシーンも胸が熱くなりました。ずっと一緒だったヨーアヒムと駅で別れるシーンです。彼らは昔からお互いのことを名前で呼ばず、「おい」とか「君」と呼び合っていました(上巻P18)。それは、感情に溺れないようにするためでした。しかし、いよいよ別れるという時になって初めて、ヨーアヒムは「ハンス」と口にするんですよね……! いやはや、本当に粋な以下略
・「雪」でハンスが立ち上がるシーン(下巻P303)
ここは、今の自分にとっても昔の自分にとっても、1番惹かれるシーンです。あえてものすごく俗っぽい表現をしてみると……。様々な人との交流を通じて、ハンスはここで「覚醒ハンス」になったのだと思います(笑) ハンスは「主人公らしくない」とよく言われているようですし、実際、そう思わせる側面もあると思います。が、このシーンのハンスは本当に「主人公」をしていたと思います。彼は夢の中でずっと探していた言葉にたどり着いた後、まるで生き返るかのように目覚めます。「……起きろ、起きろ、眼をあけろ」、「見ろ、そら、――いい天気だ」といった描写も好きですねえ……!
・ペーペルコルンに、ハンスとショーシャ夫人の関係について問い詰められるシーン(下巻P551)
ここは迫力がありましたね……! 読みごたえがありましたし、ペーペルコルンという人物の強さ、恐ろしさを感じました。はっきりしない、何か言っているようで何も言っていないような物言いが多かった彼が、このシーンの重要な会話でははっきりとした言葉でハンスを問い詰めるんですよね。「あなたは、クラウディアが前にここにいたときの愛人でした」と言う瞬間は、こちらも緊張しました。しかし、このシーンも全然覚えていませんねえ……。新鮮な驚きがあるのはお得な気もしますけど(笑)
・「霹靂」のラスト(下巻P789)
「魔の山」最後の章「霹靂」は、ページ数で言えばたったの20ページです。が、その衝撃はすさまじいものがありました。しかし、この唐突にも思える終わり方こそが「魔の山」にふさわしいのだろうと思うし、これ以外に終わらせる方法がなかったようにも思います。いきなり頭を叩かれるような、それこそ、ハンスと共に眠りから覚めたような思いでした。直前のセテムブリーニとの別れはやはりジーンときましたし。ハンスが戦場に消していくのを見送るというラストの描写も好きです。自分のたどり着きたい言葉に、結論にたどり着けた彼は、激動の世界でどう生きていくのでしょうか。その後に思いをはせずにはいられません。
<笑えたシーン>
次に、いかにも俗っぽいことですが、笑えたシーンについても書いていきます。前回それほど意識しなかったのですが、本作品はユーモラスなシーンも結構あるんですよね。トーマス・マンさんって、ユーモラスなところがある方だったのでしょうか。今回の再読で、かなり親近感がわきました。特に笑ってしまったシーンを書いていきます。
・「二十四、といわれましたな」という問いにハンスが答えるシーン(上巻P183)
セテムブリーニとハンスが話しているところ。ハンスはその直前に「二十八種類の魚ソースを作る」というシュテール夫人の話をしていました。セテムブリーニとしてはどうでもいい話であり、ハンスに年齢を尋ねます。それに対してハンスは、「二十八の魚ソースです」と答えて呆れられるのでした。ハンスのボケに、こちらもズッコケるような思いです。「こんなに笑えるシーンをなんで覚えていないんだろう?」と不思議に思いますね。
・ハンスが、ショーシャ夫人の絵をもって回るシーン(上巻P542)
すっかりとショーシャ夫人に惚れていたハンスは、周りから見ると滑稽な行動を多々見せます(上巻P479、P487なども)。その中でも、このシーンは特に好きです。絵をもったまま歩き回る彼に対する、「……どうなさったのです。どうなさるおつもりです」という顧問官のツッコミが良いっすね。
・クリスマスのプレゼントの案として、セテムブリーニが「自分の書いている本」というシーン(上巻P561)
ここのシーンは、さらっと書いてあるのが笑いを誘いました。セテムブリーニさんも、けっこう可愛いところがありますね。近くにいたら疲れそうですけど……(笑)
・シュテール夫人への辛辣なコメント(上巻P614など)
これは、彼女の学のなさからくるおかしさなので、笑っていいのかちょっと迷うのですが……。「十八番」(おはこ)を「十七番」と言ったり、ベートーベンの「エロイカ」というところを「エロティカ」(下巻P397)と言ってしまう彼女ですが、それに対して地の文(作者ということでしょうが)が辛辣な評価を下すんですよね。「吐き気を催させるほどだった」等のコメントには、「そこまで言わんでも……!」と思いました(笑)
・検事、総領事夫人、ゲンザー青年が3人一緒に踊るシーン(上巻P691)
思わず「それでいいんかい!」と突っ込んでしまったシーンです(笑) 3人は三角関係なんですが、仲良く踊れるんですね……。この場所がいかに放縦であるかが分かるシーンでもあります。なお、その後にある「シュテール夫人はひとり箒と踊っていた」という描写も良いです。
<ハンス・カストルプの成長について思うこと>
さて、ではここからは「ハンス・カストルプの成長について思うこと」を書いていきます。
ただ、最初に述べておきたいのは、正直自分がどこまで本作品を読み取れているかははなはだ疑問だということです……。
今回改めて痛感したのですが、自分は知識や教養が全然ありません。それらがあれば、同じ体験の中からより多くのものを読み取れたんじゃないかなという気がします。僕はドイツ文学について無知ですし、トーマス・マン氏が生きていた時期のヨーロッパについてもよく知りません。ですから、本来はこの作品から読み取られるべき大事な部分を見逃しているだろうと思います。それでも、今の自分なりにここに感想を書くのは、また再読した時の参考になればという思いがあるからです。もし、これを読んでいる方で「そこの解釈は間違っているよ」等と思うことがあれば、是非教えて頂きたいです。
では、自分なりに解釈したことを徒然に書いていきます……。
本作品は「教養小説」(ドイツ語でBildungsroman)と言われている通り、主人公の内面的な成長が大きな見どころとなっています。主人公であるハンス・カストルプは23歳の若者ですが、彼はその後7年間ダヴォスのサナトリウムで生活することになります。その中で彼は、民主主義者セテムブリーニ、虚無主義者ナフタ、「大人物」ペーペルコルンらと交流し、また、ロシア婦人ショーシャに恋をすることで少しずつ自己が形成されていきます。序盤のハンスは、いかにも育ちの良いお坊ちゃんという感じがしました(笑) 自己愛が高めで、ちょっと生意気に見えるところもあります(笑) が、他人の話によく耳を傾ける好奇心を持っているし、自分が良いと思ったことは取り入れようとする素直さ、誠実さ、柔軟さがあります。彼のことをセテムブリーニやナフタは気に入るのですが、それもよく分かる気がしました。教えがいのある青年なんだろうなと思います。序盤、ハンスはヨーアヒムに自分が時間について考えたことを聞かせます(上巻P142)。こうしたエピソードはいかにも若者にありがちなことだと思いましたし、セテムブリーニの「試験採用」という言葉は言い得て妙だと思います(上巻P207)。こうした尊大さは自分も覚えがあって、それこそ僕はこのブログで「思いついた考え」をあまり吟味もせずに披露していましたね(笑) さすがに最近は身の程を知ったこともあって、同じようなことはしませんけど……。そうした「試行錯誤」を前ほど楽しくできなくなってしまったのは、少し寂しくもありますね。
少し話がそれましたが、再びハンスの性質の話に戻ります。序盤に書かれたハンスの重要な特性として、「死への親しみ」も挙げられると思います。両親や祖父との死別を通じて、彼は死を親しく思う気持ちや、死を厳粛なものとしてとらえることを好む性質が生まれたように思います(これについては、上巻P419でセテムブリーニにたしなめられていますが)。「死にかけた人間は(~)ずっと高尚だということなんだ」(上巻P118)という発言は、彼らしいものであったように思います。また、ヨーアヒムはサナトリウムにいるのをうんざりだと思っていた一方、ハンスは比較的スムーズに順応してしまうし、結局7年も滞在することになってしまいます。そこには様々な要因が関わっていると思いますが、ハンスが持つ「死への親しみ」も影響していたように思いました。
なお、祖父とのエピソードは個人的に好きなシーンの1つです。祖父が「曾(ウル)」という言葉を繰り返す様子をハンスがうっとりとして聞くところが特に良いですね(上巻P50)。
その後、彼は滞在期間を延ばすことになります。もちろん、ベーレンス顧問官がそうしろと言ったのもあるでしょうが、ショーシャ夫人の影響も少なからずあると思います。特に、ショーシャ夫人と目が合うエピソードが決定的だったという気がしますね(上巻P367)。その後のエピソードも含めて、本当に罪な女ですねえ……(笑)
サナトリウムの環境は、ハンスにどのような影響を及ぼしたのでしょうか。サナトリウムには、病気や死の危険を「免罪符」に自由を獲得した人々がたくさんいます。下界の規律、名誉といった概念に縛られていた彼は、この自由な人々を見て驚き、怒りも覚えます。が一方で、彼らに惹かれてもいきます。不名誉の無限の長所を存分に享受するアルビン氏は、ハンスに羨望の念を抱かせます(上巻P172)。そして、ショーシャ夫人もまた「免罪符」を獲得した人物でした。食事の時間に遅れてくるし、ドアをガシャンと閉める。夫人であるのに、色々な男性と関係を結ぶ。この放縦な人物に、ハンスはどうしようもなく惚れ込みます。他にも、だらしなく色恋沙汰に夢中になる人々が描かれます。その中で、彼は「自分もこうした放縦な力に身を任せたい」とも願うようになります(実際、上巻の最後で彼はショーシャ夫人との情事に及びますし、「放縦な力に身を任せた」ことで真面目なヨーアヒムに後ろめたい思いが生まれたのも当然だと思います。セテムブリーニも当然こうした放縦な力を軽蔑しており、彼は「人生からの脱落」とも言っています(上巻P415))。
ここで過ごすことで彼はサナトリウムの世界に順応し、下界で身につけた「常識」はなくなっていきます(上巻P414)。しかし、だからこそ彼は死と生についてよく考えるようになり、それによって新たな思想に至る機会を得たのだろうとも思います。
その後、彼は下界の義務、責任から解放されたのち、セテムブリーニとナフタという2人の「師匠」との交流を持つようになります。彼らから受けた影響は多大でしょうが、正直、その点については理解できていないところも多いです(笑) 彼らの議論は、やはり今読んでも難解だし、もっと言ってしまうと、僕はその議論にあまり意義を感じないんですよね……。ただ、自分も間違いなくそうだと言えるのは、ハンスが自分なりの思想を持とうと「陣とり」をし始めたのは彼らの影響が大きいだろうということです。彼らがいなければ、ハンスは「雪」で自分なりの思想にたどり着くこともできなかったでしょう。
では、「雪」でハンスがつかんだものとはなんでしょう。
「人間は善意と愛のために、その思考に対する支配権を死に譲り渡すべきでない」
それは、本作品の中でも重要な文章の1つだと思います。正直、今でもこの結論に至ったハンスの気持ちがよく分かっていませんが……。自分なりに、以下のように考察してみました。
サナトリウムには、死の病を持つことで放縦な力を得た人々が沢山いる。ここでは義務を課されることもない。「どうせ死ぬのだから」という廃退的な雰囲気もあり、欲望に忠実でだらしない。その中でも、ヨーアヒムはひとり自分を律し、立派に生きようとしている。まさに英雄的な振る舞いである。彼の存在があることで、ハンスは欲望に流されないようにできていた。
が、一方で、彼を放縦で廃退的な世界へと誘うのがショーシャ夫人。彼女は病気となることで自由を手にしていて、放縦に振舞っている。当初は彼女に怒りすら感じていたハンスだが、彼女の自由な姿に惹かれるようになっていく。そのだらしなさは、死が身近にあるからこそのものだと知りながら。
しっかりと理性を持つようにと働きかけるヨーアヒムとセテムブリーニ。しかし、謝肉祭でついにハンスはショーシャ夫人と情事に及ぶ。だらしのない享楽に身を任せてしまう。
その後、下巻の初めで、ハンスは良心の呵責に悩まされる。特に、ヨーアヒムに対しては後ろめたい気持ちがあった。「どうせ死ぬのだし」と、死に支配された世界。そこで蔓延している「だらしなさ」に自分も身を任せてしまったことをきっかけに、彼は今後の自分の立ち位置をどう定めていくのかをよく考えるようになったのだろう。ヨーアヒムには黙ってクロコフスキーのところに通うようになったのも、そのためではないだろうか(下巻P53)。
その後、ヨーアヒムは下界に向かう。ただ、ハンスはついていかない。ベーレンスから「退院してよろしい」とまで言われたのにである。それは、自分はヨーアヒムのような「英雄」的な立ち位置、形式的な生き方では生きて行けそうにはないと考えたのだと思う。市民的な自分は、ショーシャ夫人も帰ってくるであろうこの場所で、自分なりの生き方を、立ち位置を決めなくてはならない。自分は「鬼ごっこ」(下巻P97)にけりをつけなくてはならない。そんな思いがあったのではないか。
ヨーアヒムがサナトリウムから下界に降りていったことにハンスも影響を受けたのだろう、彼はサナトリウムから離れ、雪山に挑む。そこで彼はサナトリウムの世界を、自分が長らく生きている世界を客観視する機会を得た。吹雪によって命の危機にさらされた彼は、夢を見る。それは、人間の二面性を象徴するものだった。その間にたたずむ自分をみて、
「人間はどちらの性質ももっていて、その対立の中で生きている。様々な考えとその対立は人間がなくては成り立たない。であるならば、人間の存在はどんな考えよりも高貴なものである」
と思い至った。
その上で彼は、「自分は、太陽の子らの姿に与したい」と、「己は善良でありたい」と思った。そうして彼は、「理性ではなく、愛だけが善良な考えを授けてくれるのだ」、「人間は善意と愛のために、その思考に対する支配権を死に譲り渡すべきではない」と述べるに至る(この結論に至るまでの直前の思考過程がちょっとよく分かっていないけれど)。
ヨーアヒムとショーシャ夫人がいたから、セテムブリーニとナフタがいたから、彼はその結論にたどり着いたのだと思う。
が、それらは全て観念的なものであり、まだ行動の変容を伴うものにはなり得なかったのだろう。「雪」の後も物語は続き、終盤、彼は「ひどくいかがわしいこと」にも関わってしまう様子がある(この章の終わりに、彼は深く後悔することになった)。もはや自力ではこの世界から出られなくなってしまった彼。だが、最後は第1次世界大戦の勃発という大事件を機に、下界へと降りていく。新たなヒューマニズムの予感を胸にした彼は、下界でどのように生きていくのか。そのことは語られないままに、物語は終わるのだ。
<疑問に思うこと>
・上記のように書いてみたものの、やはり「雪」の結論に至る過程が良く分かっていなません。太陽の子らの姿に与したいという彼の思いは分かりますが、「愛と善意による死の克服」といわれてもちょっとピンと来ていない感じです。「理性ではなく、愛だけが死よりも強いのだ。理性ではなく、愛だけが善意ある思想を生み出すのだ」、「死と過去に対する忠誠が、僕たちの考えと陣取りを決めるならば、悪意と暗い快楽と人間敵視となるだけだ」等は、とても心惹かれる言葉だが、これもどうもピンとこないです。正直、この点は大分心残りですね……。
・下巻で話すショーシャ夫人との会話。「分別を失う愛こそ天才的なんだ。何故なら死は天才的原理、二元的原理、賢者の石だし、また教育的原理でもあるから。死への愛が生と人間との愛に導くからだ。〔......〕生に至る道はふたつある。ひとつは普通の真直ぐな真面目な道。もうひとつは良くない道、死を乗り越えて行く道で、これが天才的な道なのだ。」
これ、どういう意味でしょうか。真っすぐな真面目な道はヨーアヒムの生き方で、天才的な道は今回ハンスがたどり着いたヒューマニズムに基づいた生き方か、という気がしますが……。やっぱりよく分かりません。
・セテムブリーニとナフタの議論は理解できていないですね。正直、理解したいとあまり思えませんでした(笑) なお、僕はどちらかというとセテムブリーニの方が好きです。が、「理性が全て」という厳しさがちょっと暑苦しいです。友達にはなりたくないし、「そんな生き方じゃ疲れるんじゃない」なんて余計なことを考えてしまいますね(笑)
彼の「批判しなければなりません(P136)」という言葉は、彼らしい言葉だと思います。
ナフタはぶっ飛んでるなあと思うことばかりでしたが、「そんな理屈を本気で信じる人がいたのか」という面白さはありました。
<終わりに。自分なりに考えたこと>
前回の読了時、ブログの記載は乏しくて、なんだか寂しい気持ちになりました。そのため、今回は理解できたこと、面白いと思ったことをなるべく言語化しようと頑張ったのですが……。結局、1番分かりたかったこともピンとこなかったという悔しい結果でした。多分、トーマス・マンさんがこの本を書くまでの経過を勉強したり、当時の思想を勉強したりすれば、もっと理解できるような気もするんですけどね……。これ以上理解を深めることについては、また数年後の自分にまかせようと思います(笑)
とはいえ、久しぶりにハンス・カストルプに会えて楽しかったです。僕はやっぱり、彼のことが好きですね。
自分の信じると決めたことを信じ、形式的に生きるヨーアヒム。彼と対比的に描かれているのが、ハンスカストルプです。彼はヨーアヒムのようなストイックな生き方をできない。「あんまり仕事は頑張りたくない。好きなことをやって生きていたい」という点は僕によく似ています(笑) 彼はまた、人生の「何のために」を考えずにはいられないという特性があって、これもまた自分に似ていました。以前僕は、それこそヨーアヒムみたいに真面目なやつから「色々考えすぎじゃないの? まずは忙しいところに身を置けば、余計なことを考えなくなるよ」と言われたことがありました。その言葉は正論とも思いつつも、どこか納得できないところがありました。その理由が、今回の再読を通して分かった気もします。ハンスや僕のような人間は、精神的なものに折り合いをつけずにはいられないのかな、と思います。彼がサナトリウムで答えを得たように、僕も内省を深めながら「何のために」をよく考えます。「何のために」という声に時代が答えてくれないのは今も一緒のような気もします。ヨーアヒムのようには生きられない僕らは、悩みながら生きていく、という方法で良いのだと思います。「様々な思考の対立の場としての人間」は高貴なものだと僕も思うし、対立を自分の中で消化すべく考えることは意味があることなのだと思います。その上で、善意と愛を信じて生きていたいです。そうした思いをどう「下界」の生活で実践していくか。それはハンスや僕にとってのこれからの課題なんだろうな、なんてことも思いました。
彼のことを、もっともっとちゃんと理解したかったなあ……。12年と言わずにまた再読するかもしれません(笑)
かなりの大作であり、自分も思うことがたくさんあります。そのため、感想はかなり長文になってしまいました。消化しきれていないところも多々あるのですが、今の自分が面白いと思ったこと、書いておきたいと思ったことを正直に記していきます。
<前置き ~なぜこの本を再読することにしたのか~>
12年前の自分は、それなりに本を読んでいる学生だったと記憶しています。当時は、「自分も物語を書いていこう」と思いたった時期でした。「アウトプットをするためには、たくさんインプットしないと」と思い、とにかく色々な小説に手を出していました。その時にふと「時間に余裕がある今こそ、世界の名作と呼ばれる小説を読みまくろう」と思い立った覚えがあります。そうして始めたのが、ノーベル文学賞をとった作家の小説を1冊ずつ読んでいくというものだったんですね。今思えば「絵に描いたようなミーハーだなあ……」と笑ってしまいそうになりますが、当時はそれなりの熱意をもってこの課題に取り組みました。川端康成氏の「雪国」、大江健三郎氏の「個人的な体験」にはじまり、トルストイ氏の「戦争と平和」、ゴールディング氏の「蝿の王」、ジッド氏の「狭き門」等々……。それらの内容をどこまで理解できたかは正直怪しいし、今の自分にどれだけ生きているのかも怪しいのですが(笑) いずれも、ブログで感想を書き記していました。
それらの作品の中で最も難解だと感じたのが、トーマス・マン氏の「魔の山」でした。同氏の有名作と言えば「ヴェニスに死す」等もあるのですが、当時の僕は「魔の山」を選ぶことに迷いはありませんでした。その理由は今でもよく覚えているのですが、文庫本の裏表紙に書かれた説明文に惹かれたからなんですよね。そこには、以下のように書いていました。
「思想・哲学・宗教・政治などを論じ、人間存在の根源を追求した「魔の山」は「ファウスト」「ルァラトストラ」と並ぶ二十世紀文学屈指の名作である」
いかにも、ミーハーな人間が好きそうな文章じゃないですか(笑)ちなみに、この説明文を読んだ後、当時の自分は「ファウスト」も読了しています。本当に笑っちゃうところではありますが、一方で、「よくやったなあ」という気持ちも少しあります。ヒマだったのもあるのでしょうが、当時の自分はなかなかエネルギッシュだったと思います。
さて、そうして「魔の山」に手を出したのですが、読了後もずっと「これはまた再読しよう」と思っていました。理由はいくつかあるのですが……。1つは、あまりにも難解で、当時の自分ではよく意味が分からなかったからです(笑) 全然理解できないんですが、しかし一方で、なんだかすごく惹かれたんですよね。「これは自分にとって大事なことが書いている気がする」という感覚がありました。特に、第6章の「雪」には強烈に引き付けられました。主人公であるハンス・カストルプは、この章で自分なりの思想に至ります。この部分がうまく理解できず、非常に悔しい思いがありました。「もう少し年齢を重ねた自分でいつか挑んでみたい」。そんな気持ちは、ずっとありました。
再読しようと思ったもう1つの理由。それは非常に単純なもので、主人公であるハンス・カストルプが好きだったからです(笑) 人生に対して誠実であろうとする彼が好きで、僕はまた彼に会いたいと思ったのでした。実際、この本を手に取ってまず自分の中に生まれたのは、ハンスに再会できた喜びでした。面白いことに、彼は以前の僕よりも年上なのですが、今は僕の方が年上です。時を経てからハンスの冒険に改めて触れる体験は、予想以上に楽しかったですね。
<再読して思ったこと ~全体的なこと~>
前回は2か月半かけて読んだのですが、今回は1か月ほどでした。内容については結構忘れていましたね。ですが一方ですごく細かいところをはっきり覚えていたりして、それがなかなか面白かったです。例えば、ヨーアヒムが臨終をむかえる間際のシーン。その場に母親が付き添っていたことすら忘れていたのに、一方で、ヨーアヒムが手で何かをかき集めるような動作を繰り返していた、なんて描写ははっきり覚えていたり(下巻P394)。再読のおかげで、「こういう細部を案外覚えていたりするんだな」という発見が出来ました。
また、ストーリーについて勘違いしていた部分があったことに気が付くところもありました。大きなものとしては、上巻のラスト。ハンスとショーシャ夫人は、この日一夜を共にしていたんですね……。今読めば明らかにそうだと分かるのに、当時の僕は「私ノ鉛筆、忘レナイデ返シニキテネ」の意味が分かっていませんでした。また、「ハンス・カストルプを引き留めたのはショーシャ夫人だった」との意見について当時の僕はよく理解できませんでした(上巻P478、P334にもそれ関連の記載があります)。が、今は少し理解できます。彼は確かにベーレンス顧問官に「ここにいるように」と言われたのですが、よく読むと「ハンスは結核だった」とは書かれていないし、実際、大分怪しいのです。彼はその気になれば逃げだすこともできたはずなのに、そうしなかった。そこには確かに、ショーシャ夫人と一緒にいたいという思いが影響していたのだと思いますね。滞在が延びることになった後、ハンスはやけに物分かりよく患者として振る舞っています。このシーンは、今となっては微笑ましいですね(笑)
さて、先ほども言った通り、今回は前回よりも早く読み終えました。それはもちろん再読だからということもあるでしょうが、今回はいくつか工夫をしたことも功を奏したのかなと思っています。この部分についても、少し書いておきますね(また後ほど読むことになりそうですし……)。
今回の僕は、分からない箇所があっても長く立ち止まらないように心がけていました。とはいえ、分からないものが残っているのは気持ちが悪いので、そのことはメモに残し、あとで読み返せばいいことにして読み進めました。そうして読んでいると、後々になってふと理解出来たりするんですよね。
もうひとつは、「濃淡をつけて読む」ことを意識していました。これは、必ずしも正しいことかはわかりませんが……。随分と細かい情景描写等は、さっさと読み進めるように意識していました。「魔の山」って、とにかくあらゆる描写が丁寧なんですよね。このことはかの三島由紀夫氏も感じていたようで、彼に言わせると「そこがドイツ人らしい」そうです(笑) 個人的に、心理描写の丁寧さは大歓迎なんですけどね。例えば、1つの出来事に対して湧き上がる、相反する思いの描写を読むと、「ああ、こういうアンビバレンツは『あるある』だよね!」とか思いますし。しかし情景描写については、あまりにも長いとちょっとしんどくなるんですよね。「よく見てるなあ」とか「自分は絶対にこれを書けないなあ」という思いはあるのですが……。面白いかというと、個人的にはそうでもなかったです。
そういうわけで、大事そうなところはじっくり読んで、そうでもなさそうなところ(?)はさっさと読み飛ばす、という方法をとりました。ご批判もありそうですが、個人的にはこれも悪くなかったのかなと思います。
さて、ここからは内容についても言及していきます。まずは、「粋だなあと思ったシーン」、「笑えたシーン」について述べ、そこから、自分が1番興味のあったこと、つまり、「ハンス・カストルプの成長について思うこと」を書きます。また、最後に「よく分からなかったこと」についても言及しておこうと思います。また10年くらいしたら再読するかもしれませんからね(笑)
<粋だなあと思ったシーン>
前回の自分がどこまで意識していたのか分かりませんが、本作品は演出が優れていて、非常に印象的なシーンが多々ありました。こんなことを素人の僕が言うと怒られそうなんですが、表現が本当にうまいんですよね……。文章自体もそうですけど、シーンの切り取り方や見せ方といった演出面も素晴らしいと思いました。いくつかのシーンは、泣きそうになってしまいました。以下、特に印象的な描写、シーンを挙げてみます。
・ショーシャ夫人の肉体に関する官能的な描写(上巻P478)
特に上巻では、ショーシャ夫人の肉体の描写が妙に官能的だと感じました。それは腕だったり、軽椎骨だったりとかなり部分的なんですが、なんか妙にエロさを感じました(笑) 振る舞いはどうも上品さに欠ける彼女ですが、「良い女」という感じが伝わってきました。
・カーレンと一緒にお墓に行くシーン(上巻P660)
上巻で1番泣けるシーンと言えば、ここだと思います。まもなく死ぬであろう薄幸の少女カーレンと共に、ハンスとヨーアヒムは散歩をしていました。が、意図せず3人は墓地にたどり着きます。そこは、カーレンが死ねばここに入れられることになるであろう場所でした。石碑がぎっしりとあるその墓地ですが、1か所だけ石碑がない場所がありました。少女が死ねば埋葬されるであろうその場所で、3人はたたずみます。ハンスがちらりと少女を見ると、彼女は少し照れたような笑いを浮かべた、という描写でこのシーンは終わります。しばらくはこのシーンのことが頭から離れませんでしたね……。
・ショーシャ夫人に「君は鉛筆を持っていないかしら」と尋ねるシーン(P682)
このシーンを読んだ時は興奮しました。いや、素晴らしい伏線回収です。以前はあまり感動した覚えがないのですが、昔の自分はここを読んでどう思ったんだろうか……(笑)
ハンスは少年時代にヒッペという男の子に惹かれていました。ハンスとヒッペが話したのはたったの1度。ハンスが「すまないけど、君、鉛筆貸してくれないか」と話しかけたのでした(上巻P258)。そんな過去があっての今、ハンスは、彼とショーシャ夫人を重ねてみていることが繰り返し述べられています。その後、出てきたのがこのシーンです。
ハンスは謝肉祭でお遊びに興じ、誰かから鉛筆を借りようとします。そうして彼の目に入ったのがショーシャ夫人であり、彼は「君は鉛筆を持っていないかしら」と初めて話しかけるのでした。ヒッペから鉛筆を借りたという伏線をこのように回収するなんて、本当に粋な演出だと思います……!
・ヨーアヒムが下界へと向かうシーン(下巻P165)
このシーンも胸が熱くなりました。ずっと一緒だったヨーアヒムと駅で別れるシーンです。彼らは昔からお互いのことを名前で呼ばず、「おい」とか「君」と呼び合っていました(上巻P18)。それは、感情に溺れないようにするためでした。しかし、いよいよ別れるという時になって初めて、ヨーアヒムは「ハンス」と口にするんですよね……! いやはや、本当に粋な以下略
・「雪」でハンスが立ち上がるシーン(下巻P303)
ここは、今の自分にとっても昔の自分にとっても、1番惹かれるシーンです。あえてものすごく俗っぽい表現をしてみると……。様々な人との交流を通じて、ハンスはここで「覚醒ハンス」になったのだと思います(笑) ハンスは「主人公らしくない」とよく言われているようですし、実際、そう思わせる側面もあると思います。が、このシーンのハンスは本当に「主人公」をしていたと思います。彼は夢の中でずっと探していた言葉にたどり着いた後、まるで生き返るかのように目覚めます。「……起きろ、起きろ、眼をあけろ」、「見ろ、そら、――いい天気だ」といった描写も好きですねえ……!
・ペーペルコルンに、ハンスとショーシャ夫人の関係について問い詰められるシーン(下巻P551)
ここは迫力がありましたね……! 読みごたえがありましたし、ペーペルコルンという人物の強さ、恐ろしさを感じました。はっきりしない、何か言っているようで何も言っていないような物言いが多かった彼が、このシーンの重要な会話でははっきりとした言葉でハンスを問い詰めるんですよね。「あなたは、クラウディアが前にここにいたときの愛人でした」と言う瞬間は、こちらも緊張しました。しかし、このシーンも全然覚えていませんねえ……。新鮮な驚きがあるのはお得な気もしますけど(笑)
・「霹靂」のラスト(下巻P789)
「魔の山」最後の章「霹靂」は、ページ数で言えばたったの20ページです。が、その衝撃はすさまじいものがありました。しかし、この唐突にも思える終わり方こそが「魔の山」にふさわしいのだろうと思うし、これ以外に終わらせる方法がなかったようにも思います。いきなり頭を叩かれるような、それこそ、ハンスと共に眠りから覚めたような思いでした。直前のセテムブリーニとの別れはやはりジーンときましたし。ハンスが戦場に消していくのを見送るというラストの描写も好きです。自分のたどり着きたい言葉に、結論にたどり着けた彼は、激動の世界でどう生きていくのでしょうか。その後に思いをはせずにはいられません。
<笑えたシーン>
次に、いかにも俗っぽいことですが、笑えたシーンについても書いていきます。前回それほど意識しなかったのですが、本作品はユーモラスなシーンも結構あるんですよね。トーマス・マンさんって、ユーモラスなところがある方だったのでしょうか。今回の再読で、かなり親近感がわきました。特に笑ってしまったシーンを書いていきます。
・「二十四、といわれましたな」という問いにハンスが答えるシーン(上巻P183)
セテムブリーニとハンスが話しているところ。ハンスはその直前に「二十八種類の魚ソースを作る」というシュテール夫人の話をしていました。セテムブリーニとしてはどうでもいい話であり、ハンスに年齢を尋ねます。それに対してハンスは、「二十八の魚ソースです」と答えて呆れられるのでした。ハンスのボケに、こちらもズッコケるような思いです。「こんなに笑えるシーンをなんで覚えていないんだろう?」と不思議に思いますね。
・ハンスが、ショーシャ夫人の絵をもって回るシーン(上巻P542)
すっかりとショーシャ夫人に惚れていたハンスは、周りから見ると滑稽な行動を多々見せます(上巻P479、P487なども)。その中でも、このシーンは特に好きです。絵をもったまま歩き回る彼に対する、「……どうなさったのです。どうなさるおつもりです」という顧問官のツッコミが良いっすね。
・クリスマスのプレゼントの案として、セテムブリーニが「自分の書いている本」というシーン(上巻P561)
ここのシーンは、さらっと書いてあるのが笑いを誘いました。セテムブリーニさんも、けっこう可愛いところがありますね。近くにいたら疲れそうですけど……(笑)
・シュテール夫人への辛辣なコメント(上巻P614など)
これは、彼女の学のなさからくるおかしさなので、笑っていいのかちょっと迷うのですが……。「十八番」(おはこ)を「十七番」と言ったり、ベートーベンの「エロイカ」というところを「エロティカ」(下巻P397)と言ってしまう彼女ですが、それに対して地の文(作者ということでしょうが)が辛辣な評価を下すんですよね。「吐き気を催させるほどだった」等のコメントには、「そこまで言わんでも……!」と思いました(笑)
・検事、総領事夫人、ゲンザー青年が3人一緒に踊るシーン(上巻P691)
思わず「それでいいんかい!」と突っ込んでしまったシーンです(笑) 3人は三角関係なんですが、仲良く踊れるんですね……。この場所がいかに放縦であるかが分かるシーンでもあります。なお、その後にある「シュテール夫人はひとり箒と踊っていた」という描写も良いです。
<ハンス・カストルプの成長について思うこと>
さて、ではここからは「ハンス・カストルプの成長について思うこと」を書いていきます。
ただ、最初に述べておきたいのは、正直自分がどこまで本作品を読み取れているかははなはだ疑問だということです……。
今回改めて痛感したのですが、自分は知識や教養が全然ありません。それらがあれば、同じ体験の中からより多くのものを読み取れたんじゃないかなという気がします。僕はドイツ文学について無知ですし、トーマス・マン氏が生きていた時期のヨーロッパについてもよく知りません。ですから、本来はこの作品から読み取られるべき大事な部分を見逃しているだろうと思います。それでも、今の自分なりにここに感想を書くのは、また再読した時の参考になればという思いがあるからです。もし、これを読んでいる方で「そこの解釈は間違っているよ」等と思うことがあれば、是非教えて頂きたいです。
では、自分なりに解釈したことを徒然に書いていきます……。
本作品は「教養小説」(ドイツ語でBildungsroman)と言われている通り、主人公の内面的な成長が大きな見どころとなっています。主人公であるハンス・カストルプは23歳の若者ですが、彼はその後7年間ダヴォスのサナトリウムで生活することになります。その中で彼は、民主主義者セテムブリーニ、虚無主義者ナフタ、「大人物」ペーペルコルンらと交流し、また、ロシア婦人ショーシャに恋をすることで少しずつ自己が形成されていきます。序盤のハンスは、いかにも育ちの良いお坊ちゃんという感じがしました(笑) 自己愛が高めで、ちょっと生意気に見えるところもあります(笑) が、他人の話によく耳を傾ける好奇心を持っているし、自分が良いと思ったことは取り入れようとする素直さ、誠実さ、柔軟さがあります。彼のことをセテムブリーニやナフタは気に入るのですが、それもよく分かる気がしました。教えがいのある青年なんだろうなと思います。序盤、ハンスはヨーアヒムに自分が時間について考えたことを聞かせます(上巻P142)。こうしたエピソードはいかにも若者にありがちなことだと思いましたし、セテムブリーニの「試験採用」という言葉は言い得て妙だと思います(上巻P207)。こうした尊大さは自分も覚えがあって、それこそ僕はこのブログで「思いついた考え」をあまり吟味もせずに披露していましたね(笑) さすがに最近は身の程を知ったこともあって、同じようなことはしませんけど……。そうした「試行錯誤」を前ほど楽しくできなくなってしまったのは、少し寂しくもありますね。
少し話がそれましたが、再びハンスの性質の話に戻ります。序盤に書かれたハンスの重要な特性として、「死への親しみ」も挙げられると思います。両親や祖父との死別を通じて、彼は死を親しく思う気持ちや、死を厳粛なものとしてとらえることを好む性質が生まれたように思います(これについては、上巻P419でセテムブリーニにたしなめられていますが)。「死にかけた人間は(~)ずっと高尚だということなんだ」(上巻P118)という発言は、彼らしいものであったように思います。また、ヨーアヒムはサナトリウムにいるのをうんざりだと思っていた一方、ハンスは比較的スムーズに順応してしまうし、結局7年も滞在することになってしまいます。そこには様々な要因が関わっていると思いますが、ハンスが持つ「死への親しみ」も影響していたように思いました。
なお、祖父とのエピソードは個人的に好きなシーンの1つです。祖父が「曾(ウル)」という言葉を繰り返す様子をハンスがうっとりとして聞くところが特に良いですね(上巻P50)。
その後、彼は滞在期間を延ばすことになります。もちろん、ベーレンス顧問官がそうしろと言ったのもあるでしょうが、ショーシャ夫人の影響も少なからずあると思います。特に、ショーシャ夫人と目が合うエピソードが決定的だったという気がしますね(上巻P367)。その後のエピソードも含めて、本当に罪な女ですねえ……(笑)
サナトリウムの環境は、ハンスにどのような影響を及ぼしたのでしょうか。サナトリウムには、病気や死の危険を「免罪符」に自由を獲得した人々がたくさんいます。下界の規律、名誉といった概念に縛られていた彼は、この自由な人々を見て驚き、怒りも覚えます。が一方で、彼らに惹かれてもいきます。不名誉の無限の長所を存分に享受するアルビン氏は、ハンスに羨望の念を抱かせます(上巻P172)。そして、ショーシャ夫人もまた「免罪符」を獲得した人物でした。食事の時間に遅れてくるし、ドアをガシャンと閉める。夫人であるのに、色々な男性と関係を結ぶ。この放縦な人物に、ハンスはどうしようもなく惚れ込みます。他にも、だらしなく色恋沙汰に夢中になる人々が描かれます。その中で、彼は「自分もこうした放縦な力に身を任せたい」とも願うようになります(実際、上巻の最後で彼はショーシャ夫人との情事に及びますし、「放縦な力に身を任せた」ことで真面目なヨーアヒムに後ろめたい思いが生まれたのも当然だと思います。セテムブリーニも当然こうした放縦な力を軽蔑しており、彼は「人生からの脱落」とも言っています(上巻P415))。
ここで過ごすことで彼はサナトリウムの世界に順応し、下界で身につけた「常識」はなくなっていきます(上巻P414)。しかし、だからこそ彼は死と生についてよく考えるようになり、それによって新たな思想に至る機会を得たのだろうとも思います。
その後、彼は下界の義務、責任から解放されたのち、セテムブリーニとナフタという2人の「師匠」との交流を持つようになります。彼らから受けた影響は多大でしょうが、正直、その点については理解できていないところも多いです(笑) 彼らの議論は、やはり今読んでも難解だし、もっと言ってしまうと、僕はその議論にあまり意義を感じないんですよね……。ただ、自分も間違いなくそうだと言えるのは、ハンスが自分なりの思想を持とうと「陣とり」をし始めたのは彼らの影響が大きいだろうということです。彼らがいなければ、ハンスは「雪」で自分なりの思想にたどり着くこともできなかったでしょう。
では、「雪」でハンスがつかんだものとはなんでしょう。
「人間は善意と愛のために、その思考に対する支配権を死に譲り渡すべきでない」
それは、本作品の中でも重要な文章の1つだと思います。正直、今でもこの結論に至ったハンスの気持ちがよく分かっていませんが……。自分なりに、以下のように考察してみました。
サナトリウムには、死の病を持つことで放縦な力を得た人々が沢山いる。ここでは義務を課されることもない。「どうせ死ぬのだから」という廃退的な雰囲気もあり、欲望に忠実でだらしない。その中でも、ヨーアヒムはひとり自分を律し、立派に生きようとしている。まさに英雄的な振る舞いである。彼の存在があることで、ハンスは欲望に流されないようにできていた。
が、一方で、彼を放縦で廃退的な世界へと誘うのがショーシャ夫人。彼女は病気となることで自由を手にしていて、放縦に振舞っている。当初は彼女に怒りすら感じていたハンスだが、彼女の自由な姿に惹かれるようになっていく。そのだらしなさは、死が身近にあるからこそのものだと知りながら。
しっかりと理性を持つようにと働きかけるヨーアヒムとセテムブリーニ。しかし、謝肉祭でついにハンスはショーシャ夫人と情事に及ぶ。だらしのない享楽に身を任せてしまう。
その後、下巻の初めで、ハンスは良心の呵責に悩まされる。特に、ヨーアヒムに対しては後ろめたい気持ちがあった。「どうせ死ぬのだし」と、死に支配された世界。そこで蔓延している「だらしなさ」に自分も身を任せてしまったことをきっかけに、彼は今後の自分の立ち位置をどう定めていくのかをよく考えるようになったのだろう。ヨーアヒムには黙ってクロコフスキーのところに通うようになったのも、そのためではないだろうか(下巻P53)。
その後、ヨーアヒムは下界に向かう。ただ、ハンスはついていかない。ベーレンスから「退院してよろしい」とまで言われたのにである。それは、自分はヨーアヒムのような「英雄」的な立ち位置、形式的な生き方では生きて行けそうにはないと考えたのだと思う。市民的な自分は、ショーシャ夫人も帰ってくるであろうこの場所で、自分なりの生き方を、立ち位置を決めなくてはならない。自分は「鬼ごっこ」(下巻P97)にけりをつけなくてはならない。そんな思いがあったのではないか。
ヨーアヒムがサナトリウムから下界に降りていったことにハンスも影響を受けたのだろう、彼はサナトリウムから離れ、雪山に挑む。そこで彼はサナトリウムの世界を、自分が長らく生きている世界を客観視する機会を得た。吹雪によって命の危機にさらされた彼は、夢を見る。それは、人間の二面性を象徴するものだった。その間にたたずむ自分をみて、
「人間はどちらの性質ももっていて、その対立の中で生きている。様々な考えとその対立は人間がなくては成り立たない。であるならば、人間の存在はどんな考えよりも高貴なものである」
と思い至った。
その上で彼は、「自分は、太陽の子らの姿に与したい」と、「己は善良でありたい」と思った。そうして彼は、「理性ではなく、愛だけが善良な考えを授けてくれるのだ」、「人間は善意と愛のために、その思考に対する支配権を死に譲り渡すべきではない」と述べるに至る(この結論に至るまでの直前の思考過程がちょっとよく分かっていないけれど)。
ヨーアヒムとショーシャ夫人がいたから、セテムブリーニとナフタがいたから、彼はその結論にたどり着いたのだと思う。
が、それらは全て観念的なものであり、まだ行動の変容を伴うものにはなり得なかったのだろう。「雪」の後も物語は続き、終盤、彼は「ひどくいかがわしいこと」にも関わってしまう様子がある(この章の終わりに、彼は深く後悔することになった)。もはや自力ではこの世界から出られなくなってしまった彼。だが、最後は第1次世界大戦の勃発という大事件を機に、下界へと降りていく。新たなヒューマニズムの予感を胸にした彼は、下界でどのように生きていくのか。そのことは語られないままに、物語は終わるのだ。
<疑問に思うこと>
・上記のように書いてみたものの、やはり「雪」の結論に至る過程が良く分かっていなません。太陽の子らの姿に与したいという彼の思いは分かりますが、「愛と善意による死の克服」といわれてもちょっとピンと来ていない感じです。「理性ではなく、愛だけが死よりも強いのだ。理性ではなく、愛だけが善意ある思想を生み出すのだ」、「死と過去に対する忠誠が、僕たちの考えと陣取りを決めるならば、悪意と暗い快楽と人間敵視となるだけだ」等は、とても心惹かれる言葉だが、これもどうもピンとこないです。正直、この点は大分心残りですね……。
・下巻で話すショーシャ夫人との会話。「分別を失う愛こそ天才的なんだ。何故なら死は天才的原理、二元的原理、賢者の石だし、また教育的原理でもあるから。死への愛が生と人間との愛に導くからだ。〔......〕生に至る道はふたつある。ひとつは普通の真直ぐな真面目な道。もうひとつは良くない道、死を乗り越えて行く道で、これが天才的な道なのだ。」
これ、どういう意味でしょうか。真っすぐな真面目な道はヨーアヒムの生き方で、天才的な道は今回ハンスがたどり着いたヒューマニズムに基づいた生き方か、という気がしますが……。やっぱりよく分かりません。
・セテムブリーニとナフタの議論は理解できていないですね。正直、理解したいとあまり思えませんでした(笑) なお、僕はどちらかというとセテムブリーニの方が好きです。が、「理性が全て」という厳しさがちょっと暑苦しいです。友達にはなりたくないし、「そんな生き方じゃ疲れるんじゃない」なんて余計なことを考えてしまいますね(笑)
彼の「批判しなければなりません(P136)」という言葉は、彼らしい言葉だと思います。
ナフタはぶっ飛んでるなあと思うことばかりでしたが、「そんな理屈を本気で信じる人がいたのか」という面白さはありました。
<終わりに。自分なりに考えたこと>
前回の読了時、ブログの記載は乏しくて、なんだか寂しい気持ちになりました。そのため、今回は理解できたこと、面白いと思ったことをなるべく言語化しようと頑張ったのですが……。結局、1番分かりたかったこともピンとこなかったという悔しい結果でした。多分、トーマス・マンさんがこの本を書くまでの経過を勉強したり、当時の思想を勉強したりすれば、もっと理解できるような気もするんですけどね……。これ以上理解を深めることについては、また数年後の自分にまかせようと思います(笑)
とはいえ、久しぶりにハンス・カストルプに会えて楽しかったです。僕はやっぱり、彼のことが好きですね。
自分の信じると決めたことを信じ、形式的に生きるヨーアヒム。彼と対比的に描かれているのが、ハンスカストルプです。彼はヨーアヒムのようなストイックな生き方をできない。「あんまり仕事は頑張りたくない。好きなことをやって生きていたい」という点は僕によく似ています(笑) 彼はまた、人生の「何のために」を考えずにはいられないという特性があって、これもまた自分に似ていました。以前僕は、それこそヨーアヒムみたいに真面目なやつから「色々考えすぎじゃないの? まずは忙しいところに身を置けば、余計なことを考えなくなるよ」と言われたことがありました。その言葉は正論とも思いつつも、どこか納得できないところがありました。その理由が、今回の再読を通して分かった気もします。ハンスや僕のような人間は、精神的なものに折り合いをつけずにはいられないのかな、と思います。彼がサナトリウムで答えを得たように、僕も内省を深めながら「何のために」をよく考えます。「何のために」という声に時代が答えてくれないのは今も一緒のような気もします。ヨーアヒムのようには生きられない僕らは、悩みながら生きていく、という方法で良いのだと思います。「様々な思考の対立の場としての人間」は高貴なものだと僕も思うし、対立を自分の中で消化すべく考えることは意味があることなのだと思います。その上で、善意と愛を信じて生きていたいです。そうした思いをどう「下界」の生活で実践していくか。それはハンスや僕にとってのこれからの課題なんだろうな、なんてことも思いました。
彼のことを、もっともっとちゃんと理解したかったなあ……。12年と言わずにまた再読するかもしれません(笑)
この記事へのコメント