「悪について」を読了しました。

エーリッヒ・フロムによる著書「悪について」を読了しました。エーリッヒ・フロムはドイツ生まれのユダヤ人であり、精神分析家でした。フロイトの理論に対して批判的検討を行っており、彼の代表作のひとつである本書「悪について」の中でもフロイトについて何度も言及されています。
個人的には興味深く読めたのですが、一部理解が及ばないところ、納得できないところもありました。自分の理解できた範囲で述べていきますので、至らない点がございましたらご指摘いただけると幸いです。

本書は、人間の善悪についてかなり明瞭に述べています。「何を悪とするべきか」についての記載は、なかなか興味深かったです。
個人的には、「善悪」の判断って難しいなと思っていました。「正義の反対は別の正義」という言葉もあるとおり、その人の立場や置かれた状況によっても、善悪の判断は異なります。「これが悪である」と断言するのは、なかなか難しいことのように思います。
ただ一方で、「こいつは本当に悪いやつだな」と思うことはあります。
例えば、最近僕の周りであったことで言いますと……。僕の知っている女性の1人に「こいつはクズだ」とさえ思ってしまった人物がいます。彼女はまず、軽い知的障害がある若い女性に声をかけて仲良くなり、その後その女性ら自らが望んでクスリをやるようにしむけていました。その後、彼女らがお金に困ったところで風俗店に行かせる、といったことを繰り返していました。
その人は、そういうことをなんの悪びれもなくやってみせるんですよね。「だまされるほうが悪いのだ」とでもいうような態度で、「こいつには良心というものがないのか」と思ったものです。
そんな、他人を貶めて利用することにまったく躊躇がない人、迷惑をかけてもまったく反省しない人を見ると、僕は「悪」を感じます。考えてみると、「他者への共感性に乏しく、自分の都合で他人を食い物にする人」に対して、僕はそのように感じるようです。

さて、本書を書いたエーリッヒ・フロムはどのように「悪」と捉えているかといいますと。彼は、「生に逆行する性質」を悪だと述べています。また、悪の真髄ともいえる性質として、「ネクロフィリア」、「ナルシシズム」、「近親相姦的共生」をあげ、これらについて細かく本書で述べていました。そこにはやはり第2次世界大戦で経験したこと、特にヒトラーら独裁者たちの行動をリアルタイムで見てきたことの影響があるのだと感じました。ドイツの人々がいかにヒトラーを熱狂的に支持するに至ったか、ユダヤ人の迫害という非人道的な行いに走ったのかは、本書のいたるところに記載されていました。

本書の中に書いてある理論には、正直あまり実感がわかず、眉唾ものに思える箇所もあります。ただ、「これは納得できるな」と思えるものも多々あり、すでに3回ほど読み返してしまいました。個人的に他の本との関連で興味深かったのは、「フロイトは決定論者であったか、そうではなかったか」についての記載です。アドラー心理学について記載した「嫌われる勇気」では、フロイトは決定論者であるとして非難されています。が、その記載が個人的に引っかかっていたんですね。本書のおかげで、「フロイトは決定論者らしく語ることもあったが、一方でその運命から変わる可能性も指摘していた」ことに気が付くことができ、この問題についてストンと納得できました。

人間を動かすエネルギーにはどんなものがあるのか。悪行を繰り返している人物は、どんな思いでそのようにしているのか。身近な経験を思い出しながら、興味深く本書を読ませて頂きました。なお、「自分はネクロフィリア的な傾向が結構あるな」なんて思ってしまったのは内緒です(笑) 今後は、「衰退のシンドローム」に陥らないように気をつけます。

以下は、特に興味深かったポイントを書き並べたものです。完全に自分用なので悪しからず……。

・暴力にはさまざまな形態がある。病的でないものもある。
・復讐について。独立してきちんとした生活ができず、復讐願望に全存在をかけるような神経症的な人に比べて、成熟した生産性の高い人は、復讐したいという気持ちに突き動かされることが少ないことが示されている。復讐がなければ自尊心だけでなく、自己意識やアイデンティティが崩壊する人もいる。工業先進国の多くでは、最も搾取されている下層中産階級に、復讐したいという感情が集中する。
・人間には、変容、変化させられるばかりでなく、世界を変容、変化させて、自分の足跡を世界に刻みたいと切実に思っている。が、無力がゆえにその目標が達成できないと人は苦悩する。そして、自分の能力を行使させないことに対し、生に復讐する。創造できないものは、破壊することを望むようになる。
・人間が破壊的でサディスティックな暴力の潜在性を持つのは、人間が人間であってモノではないからであり、生を創造できなければそれを破壊する必要があるからである。

・ほとんどの人にはバイオフィリア的な傾向とネクロフィリア的な傾向が共存しているが、どちらがどれくらい強いかはそれぞれ違っている。
・ネクロフィリア的な傾向を持つ人は、生きていないもの、死んでいるものすべてに惹かれ心奪われる。彼らは、生を破壊できる力を愛している。また、彼らが愛するのは、成長しないもの、機械的なものすべてである。彼らにとって「法と秩序」は偶像崇拝の対象である。生に恐れを抱くのは、それが本質的に無秩序で支配できないものだからだ。死こそが、生におけるただ1つ確実なことなのだ。
・ネクロフィリア的な性質を持つ人物として、ユングがいる。しかし一方で、彼は想像的な人物でもあった。彼は内なる対立を解消した。
・バイオフィリア的な傾向を持つ人は、現状を維持するより新しいものを組み立てることを好む。
・バイオフィリアの倫理は、独自の善悪の原理を持つ。善は生に寄与するものすべてであり、悪は死に寄与するものすべてのものだ。
・ネクロフィリア的な人物は、たいてい死を愛する自分の性向に気がついていない。
・フロイトの言う、「生の本能(エロス)」と「死の本能」とは、生きようとする原初的でもっとも根本的な性質と、人がその目的を果たせないときに生じる矛盾との間のものである。生の本能は適切な環境があれば発達するが、それがなければネクロフィリア的な性質があらわれてその人を支配するようになる。
・バイオフィリア的な性質を育てるためには、何より生を愛する人と一緒にいることである。そして、安全で公平であること。かつ、自由であることだ。安全と公正のある社会でも、個人の創造的で自主的な活動が思うようにできなければ、生への愛が育たない可能性がある。
・フロイト説における肛門性格と、ネクロフィリア的な性格は良く似ている。肛門性格には、サディズムや破壊性といった特徴が見られることが多い。
・現在の、官僚制的な構造を持つ中央集権的な産業主義では、ネクロフィリア的な性質が強まる可能性がある。生をないがしろにするネクロフィリア的な性質と、スピードをはじめ機械的なものすべてを賞賛することには類似性がある。今後は、ヒューマニズムの産業主義をどう作っていくかが問題である。

・フロイトのナルシシズムの概念については、十分に評価されてこなかった。それは、フロイトがこの概念を無理にリピドー理論に当てはめていたためである。
・人間は生まれつきナルシシズムを持つ。正常に発達した場合でも、人は一生涯、ある程度のナルシシズムを持ち続ける。ナルシシズムのわかりやすい例としては、大半の人は自分の排泄物を見たりにおいをかいだりしても気にしないが、他人のものは嫌悪するという事実だ。
・成熟した人においては、ナルシシズムは完全に消滅はしないものの、それが社会的に容認される最低限まで減少している。
・ナルシシスティックな人は、ほかの人の現実が自分の現実と違うことを認識でない。ナナルシシスティックなこだわりがあると、外の世界へは関心がほとんど向けられない。
・道徳的心気症もやはりナルシスティックである。自責の念やこれまでにしてきた悪事のことで頭がいっぱいになっている。第3者からすると、その人はまじめで道徳的で他人を気遣うようにさえ見えるが、実は自分のことしか興味がない。うぬぼれ屋のナルシズムと変わりはない。
・多くの場合、ナルシシスティックな性向はつつしみや謙遜の陰に隠れている。しかし、どのような形で現れようと、外の世界への真の興味がかけていることは、すべての形のナルシシズムに欠けている。
・ナルシシスティックな情熱は、重要な生物学的機能だと思われる。大量のナルシシズムが自然から与えられたおかげで、人は生存のために必要なことをできるようになったのだ。生存のためには、最適な程度のナルシシズムが役立つ。社会的協調と両立する程度である。ナルシシスティックな愛着の結果で何より危険なのは、合理的判断がゆがめられることである。また、批判に対して感情的に反応することも問題。批判を公正なものだとは創造できないのだ。怒りが激しいのは、適切な行動(もっと浴するように努力するなど)によって恐怖をやわらげることができないためである。批判者、あるいは自分自身を破壊する以外に、ナルシシスティックな平穏への脅威から救われるすべはない。
・私の考えでは、メランコリアに見られる悲嘆の要素は、すばらしい私が死に、そのためにうつ状態の人が悲しんでいるというナルシシスティックなイメージをさす。
・ナルシシズムには良性と悪性がある。良性のナルシシズムの場合、その対象はその人の努力の結果である。そのため、しごとそのものが現実とのかかわりを必要とするため、セルフチェックが働き、結果としてナルシシズムは限界を超えないよう抑えられている。
・悪性のナルシシズムの場合、その対象はその人がしたことや生み出したものではなく、その人が持つものである。偉大さを維持するために、どんどん現実から自分を分離していく。
・集団的ナルシシズムは個人のナルシシズムほど認識するのが容易ではない。「私」を「国家」に代えて語れば、彼はその国や神などへの愛に満ちた人物として賞賛されるだろう。持ち上げられた集団の内部では、全員の個人的なナルシシズムがくすぐられ、何百万もの人々が賛同しているのだから、それが正当なことに思える。
・成員の多くが満足できるだけのものを供給する手段のない社会において、その不満を取り除きたければ、その成員に悪性のタイプのナルシシスティックな満足を与えるしかなくなる。
・集団的ナルシシズムと対立するのは、ヒューマニズムである。
・教育程度が高いほど、個人あるいは集団のナルシシズムはある程度緩和、軽減されるといえる。
・戦争が始まってしまうと、各国政府は戦争に勝つための心理的な必要条件として、国家的ナルシシズムを高揚させようとする。
・集団的ナルシシズムが傷つけられると、個人のナルシシズムと同じように激しい怒りの反応が起こる。傷ついたナルシシズムを癒すためには、傷つけたものを粉砕し、ナルシシズムへの侮辱を帳消しにする以外にない。
・病理的でない愛は、互いのナルシシズムに基づくものではない。それは自らを独立した存在として経験しつつ、相手に心を開いてひとつになれる2人の関係である。愛を経験するためには、分離を経験しなければならない。
・人間の目的は、自己のナルシシズムを克服することだ。
・ナルシシズムを克服しようとする人間の試みにとっては、科学とヒューマニズムを志向することが大きな助けとなる。

・男の子あるいは女の子の母親への善エディプス的愛着は、発達のプロセスにおける中心的な現象である。この前性器的意味における「近親相姦的」衝動は、男女の最も根本的な熱情のひとつであり、人間の保護欲、ナルシシズムの満足を含む。
・大人になっても、子供が母親の愛を求めるのと同じ条件が、レベルは違っても存在し続ける。生涯を通じて「母なるもの」を見出せれば、その一生は危険や悲劇から解放されることになるだろう。
・人は、生まれた瞬間から2つの方向性の板ばさみになっている。1つは光に向かっていくこと、もう1つは暗い子宮へと戻ることだ。
・もっとも深いレベルの母親への固着は、近親相姦的共生である。その人なしでは生きられず、関係が危機に瀕すると、非常に強い不安と恐怖を感じる。
・近親相姦的固着は、ナルシシズムと同じように、理性や客観性と相容れない。
・近親相姦的固着の病理は、退行のレベルに依存している。
・固着の対象が、母親ではなく、家族、国家、民族の場合、このような形で判断に支障をきたしていることが見えにくくなる。近親相姦的固着はふつうそのように認識されることはなく、理性的に思えるよう合理化されている。

極端な形のネクロフィリア、ナルシシズム、近親相姦的共生が交じり合うと、私が「衰退のシンドローム」と呼んだものになる。それぞれの性向での退行が深くなればなるほど、3つは1点、つまり極度の退行状態へと収束して、いわゆる「衰退のシンドローム」を形成する。反対の性質は、バイオフィリア、愛、そして独立と自由であり、これら3つの性質をあわせたシンドロームを私は「成長のシンドローム」と呼ぶ。
・衰退のシンドロームを示す人は真に悪であり、生と成長に背を向け、死と不能を愛好している。具体例はヒトラーである。しかし、彼らは自分たちの性向を、愛国心や義務、名誉として正当化しようとする傾向がある。だからこそ、彼らの本性をきちんと認識しなくてはならない。

・人間は自然にとらわれながら、自らの思考では自由であるという、驚くべき矛盾に直面する。この葛藤は解決を強く求めている。これが人間の本質である。本質をなすものは問題それ自体であり、答えを出す必要性そのものである。人間存在のさまざまな形態は本質ではなく、それ自体が本質である葛藤に対する答えなのだ。
・この答えのひとつが、退行的な回答である。死前夜動物的な生活や祖先のところなど、自分が来たところへと戻ろうとする。理性や自意識を捨てようとするかもしれない。
・もう1つの解決法は前進的解決法である。人間的な力、うちなるヒューマニティを最大限発達させることによって、新たな調和を発見するという方法である。
・人間は2つの可能性、つまり、退行か善進化のどちらかを選ぶしかない。
・マルクスやフロイトは因果的決定論の不可逆性を信じるという意味においての決定論者ではなかった。両者とも、すでに始まってしまった行程でも代えられる可能性があると信じていた。フロイトにとっての無意識の自覚、マルクスにとっての社会、経済的な力と階級の利害の自覚は、解放の条件だった。
・人間は選択の自由を持つ人と失ってしまった人がいる。
・「悪を選ぶ自由のない」人は、完全に自由な人間となる。選択の自由という問題が存在するのは、矛盾する傾向を持つまさに平均的な人々においてなのである。
・私たちの選択能力は、生活を送る中で絶えず変化する。それは、チェスをしているときの勝つ確率が絶えず変化するのと同じである。

・悪とは、ヒューマニズムの重荷から逃れようとする悲劇的な試みの中で自分を失うことである。
・悪の程度は、同時に退行の程度でもある。最大の悪は、生と反対に向かおうとすることである。

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